①闘病編

遠方でたった一人で看病する妻へ感謝

初めての方はまずこちらをお読みください。(希望の星『わくわく日記とは』

生後6か月で気管の手術をして「気管切開」となった息子は生後9か月になりました。

私たち家族は元々鹿児島に住んでいましたが、息子が生まれて難病(先天性気管狭窄症)と診断され、神戸のこども病院へ転院しました。

「気管切開」となり長期入院となった息子の看病のため、こども病院の近くのアパートを借り、妻が寝泊まりをしています。

私は鹿児島で仕事があるため、神戸に行くのは月に1回が精一杯です。
鹿児島にいる間はずっと妻1人が息子の看病をしていました。

妻は毎朝、息子が目が覚める前の早い時間に病院に行き、息子が夜寝るまでずっと病院にいました。

こども病院は山の中(当時)にあり、スーパーどころかコンビニも近くにありません。
車もなかったので、妻はたいてい病院の売店や買いだめしたカップ麺等で食事をすませていました。
妻が体を壊すのがとても心配でした。

「看護師さんに任せて、たまには休んだら?」
「午前中はゆっくりアパートで休んでお昼から病院に行ったら」と再三提案しましたが、妻は「〇〇が心配だし、寂しがるから・・・」とどんなに疲れていても体調が悪くても1日も休まず、病院へ通い続けました。
妻に任せっきりの私は、妻にいつも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

私が月1で神戸に行くときは、少しでも楽をさせようと毎回、大量に食料を詰め込んだトランクBOX(大)を2つかかえて、新幹線と電車とバスを乗り継いで約6時間かけて神戸へ向かいました。

また、病院に行ってからも、なるべく妻を休ませ、息子のためにできる限りのことをするように心がけました。
いつも鹿児島で何もできない分、精一杯やれることをやりましたが、やはり一番つらいのは「別れ」です。

私が帰るとき、妻はとても辛かったと思いますが、一切弱音を吐かず、いつも平然を装っていました。
今考えると妻の覚悟だったと思っています。

元々、看護師の妻は責任感がとても強く、いつも病院で明るく振舞っていました。
でも本当は人一番辛くて、孤独で不安だったんだろうなと思っています。
妻には本当に感謝しかありませんでした。

妻にはいまだに言ったことないのですが、いつも帰りの新幹線で私は号泣していました。
いつもガラガラの新幹線でしたが、声を上げて泣いていました。
車掌さんに「大丈夫ですか?」と声をかけられたこともありました。

「しばらく息子と妻に会えない悲しみ」
「父親として息子に何もしてあげれない辛さ、悔しさ」
「妻に任せっきりの自分の不甲斐なさ」
そして何より「難病の息子と妻2人を神戸に残して自分だけ鹿児島に帰る罪悪感」

帰りの新幹線の中でいろいろな感情が湧いてきます。
恐らく毎回、神戸から博多まで泣いていたと思います(笑)

今、息子が難病を克服し、当たり前に幸せに暮らせているのは、当時、妻の努力が報われた結果だと思っています。
改めて妻には感謝です。

-①闘病編
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